729年 聖武天皇の后に光明子冊立

    

聖武天皇の后に光明子冊立


長屋王の変により長屋王を自害させた後、藤原四兄弟は729年(天平元年)、政権の奪取を図るため、聖武天皇の皇后に妹の藤原光明子を立てた。人臣でははじめての皇后である。しかしその後、藤原四兄弟は天然痘に感染し、相次いで亡くなる事になる。光明子は749年、聖武天皇退位後、皇太后となっている。仏教の信仰が厚く、悲田院や施薬院を設けることで孤児や病人の救済にあたったとされている。

なお、藤原四兄弟の死後は、橘諸兄が政権を担当するとともに、政権顧問として、玄昉や吉備真備が任命されている。

人名用語解説


藤原四兄弟(ふじわらしきょうだい)

奈良時代前半において、政権を握った藤原不比等の4人の息子であり、藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ:680年-737年)、藤原房前(ふじわらふささき:681年-737年)、藤原宇合(ふじわらうまかい:694年-737年)、藤原麻呂(ふじわらまろ:695年-737年)のことをいう。藤原四子(ふじわらしし)などとも呼ばれている。

人臣(じんしん)

ここでは、皇族以外の者を示している。

皇后(こうごう)

皇后は、天皇や皇帝の正妃に与えられる称号である。一夫多妻制においては、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者をいう。

皇太后(こうたいごう)

先代の天皇・皇帝の皇后だった者を皇太后と呼ぶ。

藤原光明子(ふじわらこうみょうじ)

藤原光明子は、後の光明皇后(こうみょうこうごう:701年-760)。聖武天皇の皇后であり、藤原不比等と県犬養三千代の娘である。

悲田院(ひでんいん)

悲田院とは、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設のことである。

施薬院(せやくいん)

施薬院とは、奈良時代に設置された令外官(りょうげのかん)である庶民救済施設をいう。ちなみに令外官とは、律令の令制に規定のない新設の官職だが、後に重要な官職となっていく。

橘諸兄(たちばなのもろえ)

橘諸兄(684年-757年)は、奈良時代の公卿(摂政関白以下であり参議以上の現官および三位以上の有位者)である。後に右大臣となると、玄昉や吉備真備らを政権顧問にあたらせた。

藤原広嗣の乱を鎮圧するとともに、恭仁京遷都や大仏建立などにあたった。のちに左大臣、正一位となるが、実権は藤原仲麻呂にうつることとなる。

玄昉(げんぼう)

玄昉(生年不詳-746年)は、奈良時代の法相宗の僧である。716年(霊亀2年)に学問僧に任じられ翌年入唐、735年(天平7年)帰国している。

吉備真備(きびのまきび)

吉備真備(695年-775年)は、奈良時代の学者であり政治家。716年(霊亀2年)22歳で唐への留学生となり、翌年入唐、735年(天平7年)に帰国している。唐では儒学や天文学、兵学、音楽などを学んだとされる。


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