646年 大化の改新

    

大化の改新


蘇我蝦夷の子である蘇我入鹿は、642年、皇極天皇の即位に伴い、蝦夷に代わって国政を掌理する。また、入鹿は、舒明天皇の子であり、蘇我氏の血もひく古人大兄皇子の擁立を企てるが、この際、聖徳太子の子とされる山背大兄王やその一族を滅ぼし、皇室行事を単独で代行した。

一方、蘇我蝦夷の政策や実権を危惧した中大兄皇子(古人大兄皇子の異母弟であり同じく皇位継承者であった)や中臣鎌足は、645年、蘇我蝦夷や蘇我入鹿を滅ぼす。これを「乙巳の変」と呼ぶ。

その後、中大兄皇子と中臣鎌足は、体制を刷新するとともに、さまざまな改革を断行するが、これら一連の政治改革を「大化の改新」と呼ぶ。大化の改新は、氏姓制度の幣を打破し、唐の律令制を基に天皇中心の中央集権国家建設を目標とした。また、翌646年、新たな政治の方針を示したが、これを改新の詔(かいしんのみことのり)という。

人名用語解説


蘇我入鹿(そがのいるか)

蘇我入鹿(没年645年)は、蘇我蝦夷の子であり飛鳥時代の豪族。ヤマト王権の大臣として大きな権力を持っていたが、大化の改新における乙巳の変で暗殺される。

古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)

古人大兄皇子(没年645年)は、舒明天皇の第一皇子だが、蘇我馬子の娘である蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)を母とすることから、曽我氏の血もひいている。飛鳥時代の皇族。645年、中大兄皇子らによって攻め殺されている。

山背大兄王(やましろのおおえのおう)

山背大兄王(没年643年)は、聖徳太子の子であるとされている。蘇我入鹿の攻撃を受け、最終的に自害している。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

舒明天皇の第二皇子であり、母は皇極天皇である。中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、乙巳の変を起こして蘇我入鹿を暗殺する。その後、孝徳天皇を即位させ、自らは皇太子となり、大化の改新を行った。後の第38代天皇の天智天皇(てんちてんのう)である。

中臣鎌足(なかとみのかまたり)

飛鳥時代の政治家で藤原氏の始祖にあたる。大化の改新以降、後の天智天皇である中大兄皇子の腹心として改革に参加し、後の藤原氏繁栄の礎を築いた。ちなみに、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)は、臨終に際して賜った藤原姓とされている。

乙巳の変(いっしのへん)

645年、蘇我入鹿を暗殺をすることで蘇我氏を滅ぼすことになった中大兄皇子や中臣鎌子による政変をいう。

律令制(りつりょうせい)

中央集権的な統治制度のこと。律令に基づく制度を意味する。


Sponsored Link